〈5月9日〉 東川篤哉

文字数 1,633文字

真っ赤な嘘


 玄関を出た瞬間、肺を満たす夜の空気を心地良く感じた。口許に手をやると、(あらわ)になった唇に指先が触れる。どうやら俺はマスクをしていないらしい。
 ――畜生、どうりで呼吸が楽なわけだ!
 自分に腹を立てつつ室内に引き返すと、リビングには仰向けになった叔母の死体。背中を刺されたのがよほど苦痛だったらしい。分厚い化粧に亀裂が入るのでは――と余計な心配をするほどに、その顔面は醜く(ゆが)んでいる。 俺のマスクは彼女の右手に血まみれの状態で(から)まっていた。小競り合いの中、叔母の指先が俺の顔からそれを()ぎ取ったのだ。「――うっかり証拠の品を残すところだった」
 マスクを(つま)み上げた俺は、それを血に汚れたナイフと同じ袋に入れて鞄に()()った。だが、それでも問題は残る。マスクを失った俺は素顔丸出しだ。これではマンションから出られない。このご時世ならば、なおさら素顔だと人目に付く。やはり代わりのマスクが必要だ。そう考える俺の視線は、叔母の口許を覆ったマスクに自然と吸い寄せられていった。――とりあえず、これを拝借するか。でも叔母と間接キスは嫌だな。それに万が一、彼女が感染者だったらどうする?
 何かと思い悩む俺の耳に、そのとき突然ピンポーンとチャイムの音。続いて聞こえてきたのは男性の声だ。「――放談社(ほうだんしゃ)の編集部から参りましたぁ!」
 マズイ、出版社の人間が叔母を訪ねてきたらしい。しかも事前の約束があるのか、男は容易に玄関先から立ち去る気配がない。事ここに至っては、一刻の猶予もない。俺は迷いを振り払って、叔母のマスクを自分の顔に装着。さらに一計を案じると、玄関の(そば)にあるトイレの扉を開けて、個室に身を潜めた。
 直後に玄関からガチャリという音。放談社の男は不躾(ぶしつけ)にも扉を開けて、室内の様子を(うかが)っているのだろう。だとすれば、リビングの死体は確実に男の視界に入るはず。すると案の定、「わあッ」という男の悲鳴。直後には、リビングに駆け込む乱暴な足音、そして「先生ッ、先生ッ」と叔母を呼ぶ声が虚しく響く。
 それを待って俺は静かに個室を出ると、わざと音を立てて玄関扉を開け閉め。それから慌てて靴を脱ぐフリをしながら、「――ど、どうしました!」
 俺は、たったいま悲鳴を聞き付けて現場に駆け込んだ甥っ子として振舞った。
「ああッ、叔母さん! い、いったい誰が、こんなことを!」
「さあ、判りません」男は叔母の死に顔と俺の顔とを交互に見やる。しかし次の瞬間、眉根を寄せると、「ん!? だけど、もしや犯人はあなたなのでは?」
「え!?」こいつ天才か。天才探偵なのか――「な、なぜ、そんなふうに?」
「だって、あなたのマスク、裏返しですよね」
「…………」そうだ。叔母との間接キス、それとウイルスを嫌った俺は、敢えて彼女のマスクを裏返して自分の顔に装着したのだ――それが、どうした?
 首を傾げる俺の顔を指差しながら、放談社の男はいった。
「あなたのマスク、表面に口紅が付いてますよ。先生ご愛用の真っ赤な口紅が」


東川篤哉(ひがしがわ・とくや)
1968年、広島県尾道市生まれ。岡山大学法学部卒業。2002年、カッパ・ノベルスの新人発 掘プロジェクト「KAPPA-ONE登龍門」で第一弾として選ばれた「密室の鍵貸します」で、本格デビュー。2011年、『謎解きはディナーのあとで』で第8回本屋大賞を受賞、大ヒットとなる。「烏賊川市」、「鯉ヶ窪学園探偵部」、「魔法使いマリィ」、「平塚おんな探偵の事件簿」各シリーズほか著書多数。テレビドラマ化された作品も多い。近著に『伊勢佐木町探偵ブルース』など。現在「メフィスト」誌上で「居酒屋『一服亭』の四季」連載中。

【近著】

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