〈5月30日〉 彩瀬まる

文字数 1,464文字

ついてくるもの


 赤ん坊を胸にくくりつけていた頃、厄介なつきまといにあっていた。
 朝夕、子供の送迎で保育園へ向かうたびに周囲の路地から現れ、ぴったりと背後について話しかけてくる。見た目は六十代ほどの小太りの男。カワイイね何歳? どこに行くの? どこに住んでいるの? と早口で子供の個人情報を聞いてくるのがすごく怖い。相手をせずにその場を離れると自転車で追いかけてくる。スーパーの出入り口に待機して、私の会計が終わるのを待ち構えている。警察に相談し、現場に居合わせた知人のコンビニ店長にも睨んでもらった。それでも駅であったり、公園であったり、つきまといは二年近く続いた。
 ある日、駅の改札口でその不審者を見つけた。男は半笑いでこちらを見ていた。私はいつものように嫌悪感から目をそらし――「しっ、目を合わせちゃいけません」と教育ママっぽい母親が子供の手をぐっと引く、あの漫画の表現はどういう経緯で生まれたのだろう。無意識のうちに私は、危険なものとは目を合わせてはいけない、と思い込んでいた――駅の床に目を落とした直後、ムラムラッと湧いた強烈な怒りに突き動かされ、顔を上げて男の目を見返した。視線が強く噛み合った瞬間、相手が怯むのが分かった。男は顔を背け、そそくさとその場を後にした。
 危険なものから、目をそらしてはいけない。目をそらしたら、それはついてくる。見て、対処の意志を見せることから自衛は始まるのだと痛感した。その後、朝夕のつきまといはやんだ。
 数年、その不審者のことは忘れていた。緊急事態宣言が解除された五日後、昼間に子供と自転車の練習をして、夕方に一人で買い物に出かけた。薄曇りの過ごしやすい日で、まだ町に人は少なかった。二ヵ月続いたその静けさに、慣れつつあった。
 昼間に路肩で樹木の伐採作業をしていた幾人かの男のうちの一人が、まだ同じ場所にいた。上背があり筋肉質な、四十手前くらいの男だった。数時間前に横を通った際、やけにこちらを見てくるなと変な印象が残っていた。道具もなく、周囲は既に片付いていたのに、まだ男は植え込みの前で作業をしている素振りを見せていた。
 この男のそばを通るのも、背を向けるのも、なんとなくいやだ。漠然とした不安に襲われ、男がいる場所の数メートル手前の小道へ入った。
 慣れ親しんだ道をしばらく歩いて、ふと思い出した。
 危険なものから、目をそらしてはいけない。
 振り返ると、先ほどの男が小道に入って後をつけてきていた。距離はほんの十メートルほど。私の動きに合わせて大きく顔を背け、元の道へと走り去っていく。帰宅して通報すると、私の他にも同じ場所で同じ風体の男につけ回されたという女性からの連絡があったらしい。 
 外出を控える気運は残るだろう。人通りはすぐには回復せず、夜間に営業しているお店の数も減っている。どうかみなさん、気をつけてください。


彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。2010年「花に眩む」で第9回女による女のためのR―18文学賞読者賞を受賞し、デビュー。16年『やがて海へと届く』(講談社)で、第38回野間文芸新人賞候補。17年『くちなし』(文藝春秋)で第158回直木賞候補、18年同作で第5回高校生直木賞受賞。著書に『さいはての家』(集英社)、『森があふれる』(河出書房新社)、『珠玉』(双葉社)、『不在』(KADOKAWA)など。

【近著】

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