〈5月10日〉 近藤史恵

文字数 1,093文字

 夜の駅で、その人と出会った。
 大きなバックパックを背負っていて、明らかに旅をしているように見えた。在来線の駅のベンチに座り、菓子パンを頬張っていた。
 周辺にいた人は、あきらかに、その人を不審そうに見ていた。感染者こそ減りつつあるが、緊急事態宣言は解除されていない。旅をしている人などいない。
 もっとも新幹線も電車も動いている。どうしても、避けられない用で移動する人もいるだろうし、ホテルだってすべてが完全に営業を停止しているわけではない。旅に出たいと思えば、出ることはできる。
 その人が咳き込んだ。一瞬、まわりに緊張が走り、近くに座っていた人がベンチを立った。だが、菓子パンに()せただけのようだ。わたしはちょうど未開封だったペットボトルのお茶を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 その人は涙目でペットボトルを受け取った。興味が出て、尋ねた。
「遠くに行かれるのですか?」
 このホームからは夜行列車が出る。たぶん、それに乗るのではないかと思った。
 警戒されるかと思ったが、その人は笑顔で言った。
「人のいないところへ。なるべく人のいないところへ行こうと思いまして」
 そう言った後、言い訳するように付け加える。
「あ、わたしが感染しているというわけではありません……もちろんなにも症状がないところからの推測ですが」
 この病は無症状の人がいるというからやっかいだ。
「母が高齢で、呼吸器を患っているのです。だから家を出ました。収束するまでは戻らないつもりです。一方で移動することによって人に迷惑をかけてしまうのは重々承知です。だから、遠くの人の少ない土地で、家を借りました」
 夜行列車が入ってくる。彼は立ち上がって、お辞儀をした。
「お茶ありがとうございます」
「幸運を祈ります」
 自然に口から出ていた。そう、この人だけでなく、すべての人に。
 その人を乗せた列車は南に向かって走り出した。
 

近藤史恵(こんどう・ふみえ)
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。1993年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年に『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。その他『私の命はあなたの命より軽い』『ときどき旅に出るカフェ』『シャルロットの憂鬱』『モップの精は旅に出る』『スティグマータ』『スーツケースの半分は』『みかんとひよどり』『歌舞伎座の怪紳士』など著書多数。新刊『夜の向こうの蛹たち』が6月11日に発売予定。

【近著】

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