〈5月24日〉 赤川次郎

文字数 1,095文字

待つ日


 彼は呼び出しを待っていた。
 ほとんど数秒ごとにドアへ目をやったが、ドアは開くことなく、時が過ぎて行った。
 覚悟はできていた。どんな結果であれ、甘んじて受け入れる。自分のしたことの結果なのだから、それは当然のことだ。
 落ちつかず、つい部屋の中を歩き回りながら、ふっと足を止める。今、自分を取り巻くこの世の中の、何という醜さだろう。
 次々に襲ってくる、天災、人災。その都度失われる命。しかし、誰もその責任を取ろうとしない。「絶対安全」だったはずの原発がメルトダウンという最悪の事故を起しても、忘れる間もない内にオリンピックを開こうと言い出す。船底にあいた穴を必死に手でふさぎながら、「さあ、世界一周のクルーズに出かけましょう!」と呼びかけているようなものだ。
 いや、それは――と、彼は思った――俺のせいじゃない。俺の力でどうにかできるというものじゃなかった。それでも、ちゃんと腹は立てた。
 しかし、それで充分だったか、と問われたら……。他に何ができただろうか。
 腹を立てることはいくつもあった。眠っている女性をレイプしても、偉い人と仲がいいと捕まらないなんて、一体どこの国の話だ? だが――俺も酔って同僚の女の子に抱きついたりしたことがある。そのときの女の子の気持なんか、考えてもみなかった。
 そうだ。これから待っている世の中は、そういう腹の立つことで一杯なのだ。
 だからといって――それは俺のせいじゃない。俺一人の力では何もできない。
「いや、違う」
 と、足を止めて、彼は呟いた。
 自分を待っているのが、どんな重労働でも、辛い試練でも、それを引き受けるのは、今の世の中を少しでも良くするために努力するという約束をすることだ。どんなにわずかな、小さな力でも。
 そのとき、ドアが開いて看護師が入って来た。
「無事に産まれましたよ! 元気な女の赤ちゃんですよ!」
 2020年5月24日。――娘の誕生日のこの日は、同時に彼の「第二の誕生日」だった。


赤川次郎(あかがわ・じろう)
1948年福岡生まれ。1976年に『幽霊列車』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。「四文字熟語」「三姉妹探偵団」「三毛猫ホームズ」など、多数の人気シリーズがある。クラシック音楽にも造詣が深く、芝居、文楽、映画などの鑑賞も楽しみ。長年のミステリー界への貢献により、2006年、第9回日本ミステリー文学大賞を受賞。2016年、『東京零年』で吉川英治文学賞を受賞。

【近著】

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