〈4月11日〉 秋吉理香子

文字数 1,263文字

プリンセス


「ママはプリンセスじゃなくなったの?」
 最近、小二の息子に聞かれた。
 これまで仕事の時といえば、髪はゆる巻きのハーフアップで、上品なアクセサリーにレースやシフォンのワンピースが定番だった。それが近頃は青のヘルメットにピタピタのサイクルジャージ、エルボーパッドとニーパッド、そして大きな赤のリュック型ボックスを背負っている。
 息子はお絵描きが好きで、よくプリンセスの私を描いていたが、ふと気がついたのだろう。しばらくプリンセスになっていないと。
 今日も私は自転車に乗り、依頼のあった店へと急ぐ。出来たての食事を受け取り、指定された家へ配達するのが今の仕事だ。
 結婚式や宴席の司会の仕事は二月から減り始め、三月下旬までにゼロになった。去年、離婚を決意できたのは仕事が順調だったからで、むしろ仕事をセーブしなくて良くなった分、自由にできるお金は多くなった。息子も「パパがいない方が、ママがたくさんプリンセスになってくれる」と喜んでいたほどだ。
 でも今は無収入で、貯金も心細い。どんどん求人も減っていて、やっと見つけたのが出前の配達代行だった。オンライン登録し、代行会社のロゴが入った保温保冷ボックスが届けば始められる。一日中留守番をさせるのは不安なので、昼食時と夕食時にだけ働けるのが魅力だった。
 始めた頃はキツかった。長時間自転車をこぐので足はパンパンになり、道に迷い、配達に遅れて怒鳴られ、雨の日に自転車ごと転んで泥だらけになった。偶然にも苦手なママ友の家が配達先だった時には「へーえ、大変だねえ」と鼻で笑われた。クソくらえ、と心の中で中指を立てておいた。強くなったと思う。
 今では楽しみながら仕事をしている。だけど息子がどう思っているかはわからない──どんどん日焼けし、足腰に筋肉がつき、逞しくなっていく母のことを。きっとまた、プリンセスに戻ることを望んでいるんだろうけど。
 今日も夜まで働き、汗だくで帰宅した。
「おかえり」
 いつものように食卓でクレヨン画を描いていた息子が、笑顔で迎えてくれる。
「今日は何を描いてたの?」
「ママだよ」
「わあ、見せて見せて」
 のぞき込んで──息を呑んだ。
 それは青く輝くヘルメットにパワードスーツ、そして真っ赤なボックス型のミサイル装置を背負ってそそり立つ、勇ましい私の姿だった。
「ママはスーパーヒーローのプリンセスになったんだよね」
 息子が笑った。
 心から誇らしげな笑顔だった。


秋吉理香子(あきよし・りかこ)
早稲田大学第一文学部卒業。ロヨラ・メリマウント大学院にて映画・TV製作修士号取得。2008年「雪の花」で第3回Yahoo!JAPAN文学賞を受賞し、翌年受賞作を含む短編集『雪の花』でデビュー。『暗黒女子』は映画化もされ、多くのファンを掴んだ。そのほかの著書に『聖母』『絶対正義』『ガラスの殺意』『灼熱』などがある。

【近著】

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