〈7月4日〉 北方謙三

文字数 1,320文字

名無しホテル


 外観は、小さなホテルのように見える。海べりの、古いペンションだった。
 人生の最後の時間を、ここでホテル経営をして過ごす、と友人は言った。大きな買物だとしても、友人の経済力からしたら、それほど難しいことではなかっただろう。
 妻と、息子をひとり連れて出戻ってきた娘の、三人がホテルスタッフというわけだった。娘は、調理師免許を持っているという。
 これから振舞われるのが、その娘の料理だった。二階に四室あり、一階はダイニングと居住区で、私は二階の端の部屋に泊ることになっている。
 ホテルには、まだ名がなかった。
 私と友人の会話は、ほとんどそれについてだった。洒落た名をつけたがっていたが、なにが洒落ているのかから、考えなければならないのだった。
「二月二日、というホテルがアフリカのある国にあった。フランス語だが」
「一風かわっているね。二月二日とは?」
「その国の、独立だか革命だかの、記念日だったよ。いや、建国かな」
「今日は、七月四日か。独立にも革命にも、関係はないな」
 海にむかったテラスに、食事が出てきた。これを、売り物にするつもりらしい。
 私は、料理を食い、酒を飲んだ。料理の味は、可もなく不可もないというものだった。
 私はここへ、何度か来て泊るだろう。それが間遠になり、やがて忘れて、年賀状を交換するぐらいの仲になる。齢を重ねるというのは、そういうことだった。自分以外のことは、どうでもよくなる。
 暗い海を眺めながら、友人と食後酒を飲んだ。食後酒の種類が、友人がこの仕事にかける意気込みを表わしていた。あとは、古い建物に手を入れただけだ。
「ホテル・バイ・ザ・シー。駄目か。ホテル夕凪。ありふれているな」
 友人は、若いころと較べると、すっかり酒が弱くなった。何度も欠伸をした友人が、おやすみを言って建物の中に戻った。
 残されたグラッパの瓶から、私はグラスになみなみと注いだ。半分ほど飲み、グラスを持ったまま、海の方へ行った。
 眼の前は磯であるが、海に突き出した岸壁があった。明りはないが、少しだけ岸壁を歩いた。穏やかだが小さな波はあり、それが岸壁に当たるところが、青白く光っていた。
「ホテル夜光虫」
 私は酔った声で、海にむかって言った。
 それから首を振り、持っていたグラスのグラッパを飲み干した。
 ふり返ると、闇の中に建物が浮かびあがっていた。


北方謙三(きたかた・けんぞう)
1947年佐賀県唐津市生まれ。中央大学法学部卒。’70年『明るい街へ』でデビュー。’81年『弔鐘はるかなり』でハードボイルド小説に新境地を開く。『眠りなき夜』で日本冒険小説協会大賞、吉川英治文学新人賞、『渇きの街』で日本推理作家協会賞を受賞。近年は歴史小説での活躍が目覚ましく、『破軍の星』で柴田錬三郎賞、『楊家将』で吉川英治文学賞、『水滸伝』全19巻で司馬遼太郎賞を受賞。日本ミステリー文学大賞、菊池寛賞も受賞。『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』完結後、モンゴルを舞台に『チンギス紀』に力を注ぐ。

【近著】

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