〈6月14日〉 石黒正数

文字数 1,252文字

 全くこんな敏感な部分が恥ずかし気もなく下半身から飛び出ているんだから人間の体ときたら不完全だ。PCのモニタから視線を外し下に向ける。赤黒く腫れ上がり疼く体の一部を右手で擦ると思わず「うっ」と声が漏れた。

 足の小指を強打したのは13歳の時以来だ。あの時は骨折した。それ以来人一倍神経を使い、歩行の際は足を前に放らず爪先を立てそっと下ろし、狭い場所では必ず足元に注意を払い30年間生きて来たが結局この様だ。
 そもそもなぜこんな脆弱な形を成しているのかが分からない。狭い住宅、床置きの家具、土足厳禁スタイルで暮らす人間の足としてあまりにも無防備。象が羨ましい。あのどっしりとした頑丈そうな足。タンスの角にぶつけてもタンスの方がぶっ壊れるだろう。馬のように着地面全体が硬い爪になっているのも悪くない。
 加えて今回の怪我には人間の不完全さの他にもう一つ原因がある。小指で思い切り蹴り付けた仕事部屋の椅子は本来ならそこに無いはずの物だ。

 昨年から延々夜の住宅街に東京メトロ銀座線の深夜工事による騒音が響き渡っている。
 最も不快だと気付いたのは硬い物をダダダと粉砕する音よりも地面を伝いマンションを震わせる微弱な振動。これが例えるなら冷蔵庫の傍にいるような、うなじが逆立つような気持ち悪さでめまいや手の震えを引き起こし集中力を奪う。
 工事の位置によって同じ仕事部屋の中でも日々振動を感じるポイントが変わるため、元々並びで配置されていた三つのデスクを部屋のあちこちに分散し対策した。
 つまり深夜工事が無ければその一歩はただ空を切って着地していたはずで、小指の怪我は東京メトロのせいなのだ。大体当初の説明では観光バス乗り場があるため日中の工事が出来ないのではなかったか。今や観光バスはおろか観光客さえいないのに深夜に工事を続けているのには余程深い考えがお有りなのだろう。是非ご高説賜りたいものだ。

 恨みを込め再びモニタを睨む。先程から小指を擦りながら金輪際銀座線を使わずに方々へ移動するすべを検索していたが、結局分かったのは銀座線の利便性と昭和2年開業という長い歴史。
 ならば深夜工事の振動の方をどうにかする技術はないのか。レーザー光線、3Dプリンタ、反重力モーター。
 まあ無理だろう、なにせ長い進化の果てにこんな弱点さえ克服できない人類なんだから、と痛む小指に顔をしかめたのちネットショッピングサイトでスリッパを注文してPCの電源を切った。


石黒正数(いしぐろ・まさかず)
1977年生まれ。福井県出身。漫画家。2005年、『それでも町は廻っている』で連載デビュー。11年にわたる長期連載となった同作は、第17回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞や第49回星雲賞(コミック部門)を受賞。そのほかにも『ネムルバカ』『外天楼』など著書多数。現在『木曜日のフルット』『天国大魔境』などを連載中。

【近著】

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