〈4月13日〉 朱野帰子

文字数 1,165文字

会社に行きたい田中さん


 田中さん、あんたに言いたいことがある。ずっと言えなかったことを今夜こそ言う。会社にはもう行くな。今日から三十六日前の三月九日、うちの会社は他社より早く社員全員に自宅勤務を命じた。感染リスクの低い家の中にいられることになったんだ。なのに、なぜあんたは会社に行こうとする? 「ノートPCの画面が小さい」からと出社したのは自宅勤務になって二日目だったよな。ネットに繋がらないから何とかしてと俺まで呼び出した。家にいろ! 3.11を思い出せ。交通機関は寸断され、放射性物質はこの首都圏の上にも降ってきた。だがみんな出社するしかなかった。次の災害時には社員の命を第一にとの思いから、総務部は地道にテレワークができる環境を整えてきたんだ。なのに九年後の同じ日、あんたは「請求書にハンコを押さないと」と出社した。四月一日には「こんな時だからこそ新人歓迎会を開こう」と言い出した。お前はコロナから給料をもらってんのか? 俺が新人なら即SNSに通報だ。若者を巻きこむなよ。……要するにあんたは家に一人でいられないんだ。奥さんが出て行ってから三年、あんたは孤独を埋めるためなら何でもした。余計な残業を増やし、部下たちを帰らせなかった。今だって会社に行きさえすれば仲間に会えると思ってるんだろう。だが、幻想だ。コロナが始まる前からあんたには仲間なんかいない。部下は皆、横暴なあんたが嫌いだった。その筆頭が俺だ。退職願を出したのは国内で初の感染者が出た日だ。「じきに在宅勤務が始まる。田中とも離れていられる」と部長に宥められて思いとどまったが、距離ができた今でも、あんたは俺をZoom飲みに誘う。断れない自分が嫌だった。いっそコロナにかかってくれと願った時さえあった。だが、そうなったら負担が行くのは保健所や病院だ。大嫌いな上司の健康を俺は願わなきゃいけない。それに三十六日間あんたの晩酌につきあううち、俺は気づいたんだ。どうやら同僚たちは俺を外してZoom飲みをしている。自分にも仲間なんてものはいなかった。ずっと一人ぼっちだったらしい。だから今あんたに死なれちゃ困るんだ。もう会社には行くな! 資料をプリントするのは家でもできる。寂しさに耐えて生き延びろ。煙たくて混雑した店の中で焼き鳥を食える日が来る。一ヶ月後にはそうなっているだろう。その時は仕方がないからつきあってやる。約束するから、だから会社にはもう行くな。


朱野帰子(あけの・かえるこ)
東京都生まれ。2009(平成21)年、『マタタビ潔子の猫魂』で第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。主著に『駅物語』『わたし、定時で帰ります。』など。

【近著】


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