〈6月21日〉 朝井まかて

文字数 1,365文字

夏至の庭で


 青々とした枝の下、彼女が笊を抱えて摘んでいる。
 赤く透き通った実は、庭のゆすらうめだ。彼女はふと振り向いてマスクを顎の下にずらし、深紅の一粒を口の中に入れる。
「あなたも食べる?」「要らない」と、僕は縁側で頭を振った。彼女は「そう」とマスクを顔に戻し、また樹下に屈んだ。せっせと摘んでは笊に入れてゆく。
「ゆすらうめの実って、さくらんぼに似てるんだな」
「桜の仲間だもの。花が梅花に似てるから、山桜桃梅と書くのよ」
「何でもよく知っている」と、僕は皮肉を籠めて笑った。
 彼女は小説家だ。十数年前、突如として小説を書き始め、たいして売れてはいないが執筆の依頼は細々と続いたようだ。
 やがて彼女の昼と夜が逆転し、僕との約束を忘れ、家事を点々と放擲した。会社から帰ってドアを透かせば、いつも何かを読んでいるか書いているか、あるいは机に突っ伏している。口論する機会さえないまま、ある日、彼女は「一人になりたい」と言った。「好きにしろ」と答えた。
 どのみち何の苦楽も共有せず、僕はすでに独りだったのだ。彼女はいつも、今、ここではない時空を彷徨い、僕の見知らぬ人々と対話していた。
「大収穫。あなた一人じゃ食べきれないでしょうから、甘煮にしておくわね」
 目の周りがうっすらと赤い。また熱が出てきたのか、それとも陽射しが笊の中の深紅を照り返しているのか。
「そんなこといいから、横になれよ」「こんなの、すぐよ。雑作ない」と庭下駄を脱ぎ、素足を縁側にのせる。ひとたび言い出したらきかない女なのだ。些細なことも、重大なことも。
 彼女は手頃な家を探し、今日、山ほどの本をひきつれて出てゆく。
 けれど三日前、熱を発した。報道されている症状もある。相談センターに電話してみれば、受診が必要だと言われたらしい。診察と検査の結果次第では、そのまま入院になる。
「明日、本当に一人で大丈夫なのか」と、僕はまた念を押した。「当たり前じゃないの。でも、あなたにうつしちゃってる可能性もあるわね。だったら、ごめんなさいね」と、彼女も繰り返す。
「詫びたりするなよ。君らしくない」
 だいたい、何で今日に限ってエプロンなんかつけているんだ。神妙なほど白い。
「陽性であったとしても、死ぬと決まったわけじゃない」声を励ましたけれど、彼女は笊を抱え直して肩をすくめた。
「生き残ったら、手紙を書くわ」「LINEでいいよ」
「ううん、手紙にする。この季節はインクの匂いが立つのよ」
 彼女は六月の空を振り仰ぎ、「そういえば、今日は夏至ね」と懐かしそうに目を細めた。


朝井まかて(あさい・まかて)
1959年大阪府生まれ。甲南女子大学文学部卒業。‘08年、小説現代長編新人賞奨励賞を『実さえ花さえ』で受賞してデビュー。’14年に『恋歌』で直木賞、『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞、‘15年に『すかたん』で大阪ほんま本大賞、’16年に『眩(くらら)』で中山義秀文学賞、‘17年に『福袋』で舟橋聖一文学賞、’18年に『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞を受賞。近著に『落花狼藉』『グッドバイ』『輪舞曲(ロンド)』などがある。

【近著】

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