〈5月25日〉 薬丸岳

文字数 1,210文字

「ただいま」
 帰宅した夏目信人は鞄と紙袋を妻の美奈代に渡し、マスクを外して洗面所に向かった。手洗いとうがいを念入りにしてリビングダイニングに行くと、食卓の真ん中にケーキが置いてある。壁には美奈代お手製の飾りつけがされていた。
 五月二十五日――娘の絵美の誕生日だ。
 幼い頃に頭部に大きな怪我を負った絵美は長い間入院生活を送っている。毎年病室で絵美の誕生日を祝っていたが、今年はコロナウイルスの影響で面会が制限されてしまった。
「プレゼントは何にしたの?」先ほど渡した紙袋を見ながら美奈代が訊いた。
「店員さんに絵本を五冊選んでもらったんだ」
 時計に目を向けると、夜の八時半だ。そろそろかと思っていると、ポケットの中のスマホが震えた。
 看護師の『山本茉優』からの着信だ。
 応答ボタンを押すと、マスクとフェイスシールドをした茉優の姿が画面に映った。
「準備はいいですか?」
 茉優の言葉を聞き、美奈代がケーキに差した十五本のローソクに火をつけた。
 夏目はスマホのカメラをケーキに向けながら、「ハッピーバースデイ・トゥ・ユー……」と口ずさんだ。美奈代と茉優の声が重なる。
「……ハッピーバースデイ・ディア・絵美ちゃん……ハッピーバースデイ・トゥ・ユー」
 拍手の音とともに、美奈代がローソクの火を吹き消した。画面に映る絵美の顔が笑ったように思える。
 来年こそは、この場所で、家族三人で誕生日を祝おう。その思いを画面越しに絵美に伝え、茉優に礼を言って電話を切った。
「やっと緊急事態宣言が解除されたわね。神様も絵美の誕生日を祝ってくれてるのかしら」
 微笑みながら言った美奈代に、「きっとそうだね」と夏目は返した。
 緊急事態宣言が解除されたといっても、多くの人たちはこれからも大変な生活を強いられる。明けない夜はないと歯を食いしばって必死に耐えている人たちが大半だろうが、それでも窃盗や詐欺や傷害などコロナ禍によってもたらされたと思われる事件がここのところ急増していた。
刑事という仕事に自粛や休業はない。
「そろそろ署に戻るよ」
夏目は美奈代に告げると気を引き締め直して玄関に向かった。


薬丸岳(やくまる・がく)
1969年兵庫県生まれ。2005年に『天使のナイフ』で第51回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。2016年に『Aではない君と』で第37回吉川英治文学新人賞を、2017年に短編「黄昏」で第70回日本推理作家協会賞<短編部門>を受賞。『友罪』『Aではない君と』『悪党』『死命』など作品が次々と映像化され、韓国で『誓約』が20万部を超えるヒットを飛ばす。他の著作に『刑事のまなざし』『その鏡は嘘をつく』『刑事の約束』『刑事の怒り』と続く「刑事・夏目信人」シリーズ、『神の子』『ガーディアン』などがある。 

【近著】

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