〈7月7日〉 伊集院静

文字数 1,508文字

(いち)(りゅう)(まん)(ばい)()


 想像するに、作家の娘、息子に生まれるというのは、()いか、悪いか、と考えると、私は悪いのでは、と思う。断定した言い方がよくないのなら、表現を少しやわらげて、〝()が悪い〟のではないか。
 あれは、四、五年前になるだろうか、東京の三崎町にある鮨屋で、娘と待ち合わせた。一年に一、二回(まったく会わない年もあるが)私たち親子は会うようになった。彼女が中学生になる年まで、私は赤児の彼女と会ったきりで、普通の父娘のように会うことはなかった。私と彼女の母親が離婚をしたこともあるが、二十歳から三十歳くらいまで、私はひどく()いた生き方しかできなかった。()()しで言えば、悪い父親だったかもしれない。
「やあ、元気かい?」
「はい。元気です。(ちち)(と呼ぶ)の方は?」
「私は相変わらずだ」
「それは何よりです」
 特別な話はしないで、二時間の内に鮨屋とバーのカウンターに並んで座り、じゃあ、と言って別れる。それだけの間柄である。
 話が()れた。その三崎町の鮨屋で会った夕、彼女が、唐突に言った。
「今日は、(いち)(りゅう)万倍日だったんですよ」
「何ですか、それは。いちりゅう……。バレンタインとか、ヒナ祭りのようなものですか?」
「どちらも似てないけど、ヒナ祭りは遠くはないかな」
「もう一度言ってくれますか?」
「いちりゅうまんばいび」
 彼女は鮨屋の箸入れの小紙に〝一粒万倍日〟と書いた。
「何か、物事をはじめるにはいい日なんですって」
「何かはじめたの?」
「はい、新しい小説を書こう、って、嘘ですけどね。まあ、これまでいろんなことを試しましたが、そんなことで小説は書けませんよ」
「そう、大変だね」
「その大変を、父は三十年もやってるんでしょう。感心することもありますよ」
「私は、大変だと思ったことは一度もありません。いや、本当なんですよ、これは。でもイイ加減にやってるってことでもないんですよ」
「わかりますよ。それだけの執筆量ですもの」
「いや、私は〝質より量〟ですから……」
「いやいや、ご謙遜を……」
私は、その夜、彼女が立ち去った後、バーのカウンターに置いてけぼりの鮨屋の箸入れの紙を開き、しばらくその文字を眺め、立ち上がり、小紙をポケットに入れてホテルにむかった。路地を歩きながら、四角の夜空を見上げ、星がない夏の夜空を見つめて言った。
「なんだ、また今年の七夕も曇りじゃねぇか」
 舌打ちをして、歩き出すと、三崎町の夜風は妙に生あたたかかった。私はポケットから煙草を出して吸った。今はもう吸ってない。だから、これは昔話なのである。

 *一粒万倍日=一粒の籾が何倍も豊かに実って人々を救うことから、一粒の種を植えて豊穣の時を迎えるために、その種を植える日に幸運が宿りますように、という思いから起こった一年の中の佳い日を選定した行事。


伊集院 静(いじゅういん・しずか)
1950年山口県防府市生まれ。1972年立教大学文学部卒業。1981年短編小説「皐月」でデビュー。1991年『乳房』で第12回吉川英治文学新人賞、1992年『受け月』で第107回直木賞、1994年『機関車先生』で第7回柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞、2014年『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』で第18回司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。2016年紫綬褒章を受章。

【近著】

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