役者に魅せられた者たちの業が絡み合う時代ミステリ /『万両役者の扇』

文字数 1,354文字

どんな本を読もうかな――。

そんな悩みにお答えすべく、「ミステリー」「青春・恋愛小説」「時代小説」「エッセイ・ノンフィクション」のジャンル別に、月替わりで8名の選者が「今読むべきこの1冊」をオススメ!


今回は若林踏さんがとっておきのミステリーをご紹介!

若林踏さんが今回おススメするミステリーは――

蝉谷めぐ実『万両役者の扇』

です!

 芝居に全てを捧げるのは、人としての道理を外れること。蝉谷めぐ実は江戸の芝居文化に身を投じる者の姿を通して、芝居という芸事を突き詰めた先にある狂気を浮かび上がらせる作家だ。デビュー作である『化け者心中』とその続編『化け者手本』では女形の元人気役者を探偵役に据えた謎解きを通し、演じる者の側から芝居にとり憑かれた人間たちの業を暴き出してみせた。だが芝居の魔力に吞まれてしまうのは役者ばかりではない。そのことを示した連作短編集が『万両役者の扇』である。


 各編の中心にいるのは江戸森田座の今村扇五郎という役者だ。細筆でなぞったような華奢な顔に、品のある立派な鷲鼻を持つ扇五郎は気鋭の役者として多くの人を魅了する。一編目の「役者女房の紅」に登場する大店の娘であるお春は、扇五郎に惚れ込むあまりに、彼の女房になりたいと願う。扇五郎にはお栄という妻が既にいるのだが、それでも諦めきれないお春は大胆な行動に出て女房の座を奪おうとする。二編目の「犬饅頭」の主人公である茂吉は芝居小屋で饅頭を売る平凡な男だが、彼もまた扇五郎との出会いによって尋常ならざる世界へと足を踏み入れてしまう。このように役者の業が本人のみならず、関わった人間の心をも侵食し運命を捻じ曲げてしまうところを描いていくのが同短編集の特徴である。


 役者の深淵を覗き込んでしまった者たちが各編で意外な顚末を辿る様を読むだけでも面白い。だが、本書の真価は三編目の「凡凡衣裳」で現れる。同編の途中で描かれる事件を契機に、本書はミステリとしての興趣を加速度的に増していくのだ。四編目の「狛犬芸者」では探偵役を配した犯人探しの要素も加わるのだが、そこから五編目の「鬘比べ」と最終話「女房役者の板」まで展開が二転三転し、物語がどんどん捻じれていく。感心したのは、各編で描かれる登場人物たちの心理状態が、ミステリの度合いが高まった後の展開に布石として十分に活かされている点である。芸事に身を投じるとは、世間の常識や倫理に背いて虚構の世界に淫することでもある。それは人間性を排し遊戯性を重んずる謎解き小説の精神に近く、芝居小説を突き詰めるとミステリの興趣へ限りなく近づくことを意味する。役者に限らず、芝居に人生を奪われた者たちの人生を重ね合わせることで、作者は本書を極端な心の有り様を描き読者を驚かせるミステリとして結実させた。芝居小説を極めることによって書けるミステリがあるのだということを、蝉谷めぐ実は本書でも証明してみせたのだ。


この書評は「小説現代」2024年7月号に掲載されました。

若林踏(わかばやし・ふみ)

1986年生まれ。ミステリ小説の書評・研究を中心に活動するライター。「ミステリマガジン」海外ミステリ書評担当。「週刊新潮」文庫書評担当。『この作家この10冊』(本の雑誌社)などに寄稿。近著に『新世代ミステリ作家探訪 旋風編』(光文社)。

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