運命ではない。けれど、ある芸人との出会いがひとりの女性を変えた。

文字数 3,340文字

話題の作品が気になるけど、忙しくて全部は読めない!

そんなあなたに、話題作の中身を3分でご紹介。

ぜひ忙しい毎日にひとときの癒やしを与えてくれる、お気に入りの作品を見つけてください。

今回の話題作

『パラソルでパラシュート』一穂ミチ

この記事の文字数:1,708字

読むのにかかる時間:約3分25秒

■POINT

・女性の、人生のひとつのタイムリミットまでの1年を描く

・女性の悲哀、芸人の悲哀

・劇的な恋も波乱も起こらない? けれどキュンとする

■女性の、人生のひとつのタイムリミットまでの1年を描く


「『おもろいやつ』と『おもろいことができるやつ』はちゃうねん。僕はおもろいやつではなかった」


芸人を辞める決意をした青年が吐露した言葉。胸が痛い。でもきっと世の中は「おもろいやつ」と「おもろいことができるやつ」と「何もしないやつ」でできている。


一穂ミチによる最新長編小説『パラソルでパラシュート』。


大阪にある一流企業の受付で契約社員として働いている柳生美雨。29歳の誕生日になった瞬間から退職までのカウントダウンが始まる。辞めるまで、あと1年。受付嬢は若くないといけないから、辞めなくちゃいけない。

そんな29歳の誕生日、美雨はもらったチケットで大阪城ホールのコンサートにやってきていた。最前列の座席で彼女を魅了したのは、ステージ上のアーティストではなく、コンサートスタッフとして働く男性だった。


彼の名前は矢沢亨。売れないお笑い芸人。彼との出会いをきっかけに、亨の相方の弓彦を始めとした芸人仲間たちと交流を深めていく。淡々としていて、どこか退屈だった美雨の生活が少しずつ変化していく。

■女性の悲哀、芸人の悲哀


美雨たち受付嬢は30歳になったら退職をしなければならない。だから、退職までにそれぞれ準備をする。資格を取る女性、何かしらのスキルを磨く女性、婚活に励む女性――。急がなきゃ、タイムリミットが来てしまうから。

美雨は同僚の千冬に連れられて合コンなどに行くものの、あまり乗り気ではなかった。どうにかしないといけないんだろうなあ、と不安を抱えつつも、動くことができずにいる。


亨はそんな美雨の状況を聞いて「カタギの皆さんの人生は見切りが早いのぅ」と言う。「俺30やけど若手で通ってんで」確かに、そう聞くと芸人の亨と美雨の時の流れは違うように思う。でも、亨も今の状況に満足しているわけではない。芸人もなりたい姿はさまざまだ。テレビに出て活躍したい、ずっとステージで漫才をしていたい。だから、活動の仕方も変わってくる。芸歴10年までしか出場資格のない大会だってある。このままでいいのか、という葛藤。

そういう意味では、30歳というタイムリミットがある美雨たちと同じなのかもしれない。

今すぐに飢えるわけでもない。命を狙われているわけでもない。でも、未来が見えなくて、足掻いて、漠然と不安になる。読んでいるだけでも、彼ら、彼女らの不安が伝播して考え込んでしまう。私は未来のために何もしなくても大丈夫なのか、と。


■劇的な恋も波乱も起こらない? けれどキュンとする


美雨と亨の出会いは軽いようでいてロマンティックだ。ある種、ナンパのようなものなのだけれど、シチュエーションのせいか運命的なものを感じてしまう。しかし、いつまで経っても恋が始まらない。芸人である亨たちのファンにはなるが、美雨が恋焦がれている様子もない。なら、亨の相方の弓彦と“良い感じ”になるのだろうか? などと思ってしまうが、それは完全な下世話な勘ぐりだったと読んでいるうちに反省し始めてしまった。


美雨も、亨も弓彦も、真摯に毎日を生きている。だからこその心と心のぶつかり合いがある。恋や愛を越えて、コミュニケーションをとる。その中でほろりと覗かせる本心に、たまらなく胸を締め付けられてしまう。こんなふうに他人と接したことがあっただろうか、誰かのことを考えたことがあっただろうか。恋とか愛を抜きにして。そんなことを考えさせられる。


印象的だったのは、美雨の「どうなったら(芸人)やめようとか思ってる?」という問いへの亨の回答だった。


「椿(弓彦)が『おもんない』って言ったら」

「俺が考えたネタで椿が笑わんくなったら、もうやる意味ないやろ」


ある芸人さんが「相方が俺の言ったことで笑うのがおもしろい」「相方が笑ってもお金にはならないけど儲けた気になる」と言っていたことを思い出した。


恋も波乱も起こらない。だとしても、この作品の根底に流れるコンビ愛というには大きすぎる愛情が読者をキュンとさせるのかもしれない。

今回紹介した本は……


『パラソルでパラシュート

一穂ミチ

講談社

1760円(1600円+消費税10%)

「忙しい人のための3分で読める話題作書評」バックナンバー

「推しって一体何?」へのアンサー(『推し、燃ゆ』宇佐見りん)

「多様性」という言葉の危うさ(『正欲』朝井リョウ)

孤独の中で生きた者たちが見つけた希望の光(『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ)

お金大好き女性弁護士が、遺言状の謎に挑む爽快ミステリー(『元彼の遺言状』新川帆立)

2つの選択肢で惑わせる 世にも悪趣味な実験(『スイッチ 悪意の実験』潮谷験)

「ふつう」も「日常」も尊いのだと叫びたい(『エレジーは流れない』三浦しをん)

ゴッホはなぜ死んだのか 知識欲くすぐるミステリー(『リボルバー』原田マハ)

絶望の未来に希望を抱かざるを得ない物語の説得力(『カード師』中村文則)

黒田官兵衛と信長に叛旗を翻した謀反人の意図とは?(『黒牢城』米澤穂信)

恋愛が苦手な人こそ読んでほしい。動物から学ぶ痛快ラブコメ!(『パンダより恋が苦手な私たち』瀬那 和章)

高校の部活を通して報道のあり方を斬る(『ドキュメント』湊かなえ)

現代社会を映す、一人の少女と小さな島の物語(『彼岸花が咲く島』李 琴峰)

画鬼・河鍋暁斎を父にもったひとりの女性の生き様(『星落ちて、なお』澤田瞳子)

ミステリ好きは読むべき? いま最もミステリ愛が詰め込まれた一作(『硝子の塔の殺人』知念実希人

人は人を育てられるのか? 子どもと向き合う大人の苦悩(『まだ人を殺していません』小林由香)

猫はかわいい。それだけでは終われない、猫と人間の人生(『みとりねこ』有川ひろ)

指1本で人が殺せる。SNSの誹謗中傷に殺されかけた者の復活。(『死にたがりの君に贈る物語』綾崎隼)

“悪手”は誰もが指す。指したあとにあなたならどうするのか。(『神の悪手』芦沢央)

何も信用できなくなる。最悪の読後感をどうとらえるか。(『花束は毒』織守きょうや)

今だからこそ改めて看護師の仕事について知るべきなのではないか。(『ヴァイタル・サイン』南杏子)

「らしさ」を押し付けられた私たちに選ぶ権利はないのか(『川のほとりで羽化するぼくら』彩瀬まる)

さまざまな「寂しさ」が詰まった、優しさと希望が感じられる短編集(『かぞえきれない星の、その次の星』重松清)

ゾッとする、気分が落ち込む――でも読むのを止められない短編集(『カミサマはそういない』深緑野分)

社会の問題について改めて問いかける 無戸籍をテーマとしたミステリー作品(『トリカゴ』辻堂ゆめ)

2つの顔を持つ作品たち 私たちは他人のことを何も知らない(『ばにらさま』山本文緒

今を変えなければ未来は変わらない。現代日本の問題をストレートに描く(『夜が明ける』西加奈子)

自分も誰かに闇を押し付けるかもしれない。本物のホラーは日常に潜んでいる(『闇祓』辻村深月)

ひとりの女が会社を次々と倒産させることは可能なのか?痛快リーガルミステリー(『倒産続きの彼女』新川帆立)

絡み合う2つの物語 この世に本物の正義はあるのか(『ペッパーズ・ゴースト』伊坂幸太郎)

新たな切り口で戦国を描く。攻め、守りの要は職人たちだった――(『塞王の楯』今村翔吾)

鍵を握るのは少女たち――戦争が彼女たちに与えた憎しみと孤独と絆(『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬)

運命ではない。けれど、ある芸人との出会いがひとりの女性を変えた。(『パラソルでパラシュート』一穂ミチ

登場人物紹介

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