孤独な青年が音楽教室を舞台に裏切りと奏でる喜びに揺れ動く
文字数 4,205文字
話題の作品が気になるけど、忙しくて全部は読めない!
そんなあなたに、話題作の中身を3分でご紹介。
ぜひ忙しい毎日にひとときの癒やしを与えてくれる、お気に入りの作品を見つけてください。
安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』
■POINT
・音楽教室を舞台としたスパイ小説
・裏切りが心を苛む
・チェロと著作権とスパイと
■音楽教室を舞台としたスパイ小説
「ちょっと遠くの小窓の向こうに音を届けるように弾いてみて」
音楽は奏でる者によって伝わり方が変わる。上手いだけでは心には響かない。人の心を震わせるには技術と+αが必要になる。それは心なのだろうか。
安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』。
主人公は全日本音楽著作権連盟に勤める橘樹。周りとは距離を置いていて、ひとりでいるほうが楽なタイプだ。
そんな彼が上司の塩坪からある任務を命じられる。
それは、「音楽教室への潜入調査」。大手の音楽教室から著作権使用料を徴収することになったが、そのことが原因で「音楽教室の会」から訴えられる可能性が出てきていた。音楽教室での演奏には著作権が及ばないと主張するものだが、その前に先手を打っておきたい。潜入調査では著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむのが目的だ。
そこで、かつてチェロを習っていた橘に白羽の矢が立つ。
潜入捜査を請け負ったことで、少年時代のトラウマを抱え、大人になってからも苦しんでいる橘に、少しずつ変化が生まれていく。
■裏切りが心を苛む
橘はよく夢を見る。深海の悪夢。よく眠ることができずに、睡眠薬を常用していた。悪夢の原因は子どものころに巻き込まれたある事件。事件はチェロ教室の帰りに起こり、それが原因でチェロは壊れ、目の前で燃やされた。その出来事がトラウマとなって橘の心にこびりついていた。
橘は最初、潜入捜査が嫌でしかたがなかった。チェロに触れるのが怖かったのだ。しかし、実際に音楽教室に通い、チェロに触れ始めるとその瞬間だけは心が解放された。橘が師事することになったチェロ講師・浅葉桜太郎との相性も良いのだろう。チェロに夢中になっていくさまは、人間が「夢中になれるものを見つけた」瞬間を描いている。楽しい、もっとやりたい、もっとうまくなりたい。本のページをめくるごとに橘が生気を取り戻していくような様子は読んでいても楽しい。
ただ同時に、橘は潜入調査をしているうしろめたさにも苦しんでいくことになる。バッハが好きで、バッハの曲が弾きたいと思っても口に出せない。著作権を侵害している証拠をつかむためにポップスを弾きたいと言わなければならないからだ。ふとしたときに自分はスパイなのだと自覚する。
チェロが生活の中心になっていくにしたがって、自分は裏切り者だという事実が重くのしかかる。
そのはざまで揺れる橘の苦しみが生々しい。
■チェロと著作権とスパイと
さまざまな要素が絡み合った物語だが、どれも色濃く際立っている。
チェロは誰しもが目にしたことがあるものだけれど、どんな楽器なのか詳しいことは分からない。
著作権もよく耳にはするけれど、よくわかっていない。
もしかすると、スパイが一番親しみのあるワードかもしれない。
その3つの要素を絡めることで、少なくはない情報量を読者の中に無理なく落とし込んでいく。
橘の裏切りと同時並行で、チェロ奏者の苦しみが描かれているのも印象的だ。音楽教室に通う生徒にしては上手い橘。教室に通うことで更に上達していく。
一方、師である浅葉はチェロの大会に挑むことを決意。競争の世界へと身を投じていく。上達する喜びと、限界を感じている者の苦しみが対比として描かれていることで、チェロの奥深さが表現されている。
著作権についてもそうだ。音楽著作権について心血を注ぐ者たちと、音楽著作権の重要性がわかっていない人たちの対比。現実世界でも賛否両論あるこの問題を片方の視点からだけではなく、両方から見せることによって、改めて考えさせられる内容となっている。
ただ3つの要素が明らかにしているのはひとつのこと。音楽の力のすさまじさだ。
読み終えると、自然とバッハの『無伴奏チェロ組曲』が聴きたくなるはずだ。
「忙しい人のための3分で読める話題作書評」バックナンバー
・「推しって一体何?」へのアンサー(『推し、燃ゆ』宇佐見りん)
・孤独の中で生きた者たちが見つけた希望の光(『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ)
・お金大好き女性弁護士が、遺言状の謎に挑む爽快ミステリー(『元彼の遺言状』新川帆立)
・2つの選択肢で惑わせる 世にも悪趣味な実験(『スイッチ 悪意の実験』潮谷験)
・「ふつう」も「日常」も尊いのだと叫びたい(『エレジーは流れない』三浦しをん)
・ゴッホはなぜ死んだのか 知識欲くすぐるミステリー(『リボルバー』原田マハ)
・絶望の未来に希望を抱かざるを得ない物語の説得力(『カード師』中村文則)
・黒田官兵衛と信長に叛旗を翻した謀反人の意図とは?(『黒牢城』米澤穂信)
・恋愛が苦手な人こそ読んでほしい。動物から学ぶ痛快ラブコメ!(『パンダより恋が苦手な私たち』瀬那 和章)
・高校の部活を通して報道のあり方を斬る(『ドキュメント』湊かなえ)
・現代社会を映す、一人の少女と小さな島の物語(『彼岸花が咲く島』李 琴峰)
・画鬼・河鍋暁斎を父にもったひとりの女性の生き様(『星落ちて、なお』澤田瞳子)
・ミステリ好きは読むべき? いま最もミステリ愛が詰め込まれた一作(『硝子の塔の殺人』知念実希人)
・人は人を育てられるのか? 子どもと向き合う大人の苦悩(『まだ人を殺していません』小林由香)
・猫はかわいい。それだけでは終われない、猫と人間の人生(『みとりねこ』有川ひろ)
・指1本で人が殺せる。SNSの誹謗中傷に殺されかけた者の復活。(『死にたがりの君に贈る物語』綾崎隼)
・“悪手”は誰もが指す。指したあとにあなたならどうするのか。(『神の悪手』芦沢央)
・何も信用できなくなる。最悪の読後感をどうとらえるか。(『花束は毒』織守きょうや)
・今だからこそ改めて看護師の仕事について知るべきなのではないか。(『ヴァイタル・サイン』南杏子)
・「らしさ」を押し付けられた私たちに選ぶ権利はないのか(『川のほとりで羽化するぼくら』彩瀬まる)
・さまざまな「寂しさ」が詰まった、優しさと希望が感じられる短編集(『かぞえきれない星の、その次の星』重松清)
・ゾッとする、気分が落ち込む――でも読むのを止められない短編集(『カミサマはそういない』深緑野分)
・社会の問題について改めて問いかける 無戸籍をテーマとしたミステリー作品(『トリカゴ』辻堂ゆめ)
・2つの顔を持つ作品たち 私たちは他人のことを何も知らない(『ばにらさま』山本文緒)
・今を変えなければ未来は変わらない。現代日本の問題をストレートに描く(『夜が明ける』西加奈子)
・自分も誰かに闇を押し付けるかもしれない。本物のホラーは日常に潜んでいる(『闇祓』辻村深月)
・ひとりの女が会社を次々と倒産させることは可能なのか?痛快リーガルミステリー(『倒産続きの彼女』新川帆立)
・絡み合う2つの物語 この世に本物の正義はあるのか(『ペッパーズ・ゴースト』伊坂幸太郎)
・新たな切り口で戦国を描く。攻め、守りの要は職人たちだった――(『塞王の楯』今村翔吾)
・鍵を握るのは少女たち――戦争が彼女たちに与えた憎しみと孤独と絆(『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬)
・運命ではない。けれど、ある芸人との出会いがひとりの女性を変えた。(『パラソルでパラシュート』一穂ミチ)
・吸血鬼が受け入れられている世界に生きる少女たちの苦悩を描く(『愚かな薔薇』恩田陸)
・3人の老人たちの自殺が浮き彫りにする「日常」(『ひとりでカラカサさしてゆく』江國香織)
・ミステリーの新たな世界観を広げる! 弁理士が主人公の物語(『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』南原詠)
・大切な人が自殺した――遺された者が見つけた生きる理由(『世界の美しさを思い知れ』額賀澪)
・生きづらさを嘆くだけでは何も始まらない。未来を切り開くため「ブラックボックス」を開く(『ブラックボックス』砂川文次)
・筋肉文学? いや、ひとりの女性の“目覚め”の物語だ(『我が友、スミス』石田夏穂)
・腐女子の世界を変えたのは、ひとりの美しい死にたいキャバ嬢だった(『ミーツ・ザ・ワールド』金原ひとみ)
・人生はうまくいかない。けれど絶望する必要はないと教えてくれる物語たち。(『砂嵐に星屑』一穂ミチ)
・明治の東海道を舞台としたデスゲーム。彼らがたどり着くのは未来か、滅びか。(『イクサガミ 天』今村翔吾)
・自分の友達が原因で妹が事故に遭った。ぎこちなくなった家族の未来は?(『いえ』小野寺史宜)
・ある日突然、愛する人が存在ごと世界から消えてしまったとしたら?(『世界が青くなったら』武田綾乃)
・あり得ない! 事件を一晩で解決する弁護士・剣持麗子、見参。(『剣持麗子のワンナイト推理』新川帆立)
・想いは変わらない……夫婦が織りなす色あせない「恋愛」(『求めよ、さらば』奥田亜希子)
・別れ、挫折、迷い。それぞれが「使命」を見つけるまでの物語(『タラント』角田光代)
・骨太リーガルミステリが問いかける。正義とは正しいのか。(『刑事弁護人』薬丸岳)
・思うようにいかない人生に、前を向く勇気をくれる一冊。(『オオルリ流星群』伊与原新)
・読んでいる者の本性を暴く? 爆発を予言する男との息詰まる舌戦!(『爆弾』呉勝浩)
・リアルとフィクションが肉薄……緻密な取材が導き出す真実とは?(『朱色の化身』塩田武士)
・沖縄本土復帰直前に起こった100万ドル強奪事件! 琉球警察に未来が託される(『渚の螢火』坂上泉)
・舞台は公正取引委員会! ノンキャリ女性の奮闘劇(『競争の番人』新川帆立)