2つの顔を持つ作品たち 私たちは他人のことを何も知らない
文字数 2,849文字
話題の作品が気になるけど、忙しくて全部は読めない!
そんなあなたに、話題作の中身を3分でご紹介。
ぜひ忙しい毎日にひとときの癒やしを与えてくれる、お気に入りの作品を見つけてください。
今回の話題作
山本文緒『ばにらさま』
この記事の文字数:1,566字
読むのにかかる時間:約3分08秒
■POINT
・さまざまな女性の生き様を描いた短編集
・2回読みたくなる、見方が変わるストーリー
・「隣人は何を考えているんだろう」と考えたくなる
■さまざまな女性の生き様を描いた短編集
「九月も半ばだというのに蒸し暑さは衰える気配がない。終わりかけているのに執念だけが残っている恋愛みたいに無駄に熱い。」
恋にはさまざまな描写がある。でも、こんなにも鮮やかにその情念を蘇らせる表現がほかにあるだろうか。
山本文緒の短編集『ばにらさま』。
「モテた試しのない半人前の男」を自称する広志に生まれて初めて恋人ができた。バニラアイスクリームのように白い女性・瑞希だ。そんな2人の関係を描いた『ばにらさま』が表題作となっている。
そのほか、夫と娘と共に慎ましい倹約生活を送る主婦・秋穂の日常を描く『私は大丈夫』。
感情のアップダウンが激しい親友・胡桃に翻弄されながらも、彼女を放っておけない舞子の物語『菓子苑』。
余命短い祖母が語って聞かせてくれるポーランド人の青年との恋と、ヴァイオリンの物語『バヨリン心中』。
作家になった主婦・無花果たわわ。彼女が仕事場としているマンションのご近所さんとの関わりを描いた『20×20』。
47歳でこの世を去った中学の同級生・美和から託された形見に戸惑う夕子の物語『子供おばさん』の計6編が収録されている。
■2回読みたくなる、見方が変わるストーリー
収録作の多くには語り手がふたり存在する。主人公目線で語られる物語の中で、もうひとりの語り手の手法はさまざまだ。
例えば、『ばにらさま』。主人公の広志目線で物語が進む中に、ある女性の日記が差し込まれていく。その女性は、おそらく広志の恋人・瑞希であると推測される。
瑞希は日記に広志を恋人ではなく友人だと書いている。クリスマスは広志との約束を反故にして、会社の人から誘われた会費1万円のパーティーに行ってしまう。
読んでいると、広志が不憫に思えてくる。美人の彼女に騙されているんだ、キープされているんだ、と。しかし、物語の終盤、広志の一言で物語の雰囲気が変わる。
逆転の仕方は派手ではない。それでも、語り手が2人いるからこそのギミックに感嘆の声を上げてしまう。もう一度読み返してみると、キラキラしていたものが、急に重く暗いものになる。もうひとりの語り手の言葉が全く違う意味を持つ。でもそれは現実の世界でだって同じだ。誰かのたった一言で、自分の日常が一変することはある。
■「私の大切な人は何を考えているんだろう」と考えたくなる
物語に登場する人物は、ごく普通の人たちだ。美しいけれど感情が読めないOL。涼をとるために夏の銀行のロビーにぼんやり座っている主婦。若いアイドルのコンサート会場にいる妙齢の女性。ギャル向けのショップで働く女性。
目の前にいる人は何を考えているのだろう。知っているのは、ほんの一部だ。当然のことながら、自分が見ているだけのことしか分からない。
自分に見せていたものと真逆の一面を持っていたとしたら? 相手が直前に発した言葉の意味だって変わってくる。そう考えると、相手のことをもっと知りたいと思うのではないだろうか。すべてを知ることはできないと分かっているのに。
人の心は多面的だ。だから、他人といるのは楽しい。もっと知りたいと相手のことを考えたくなる。けれど、だからこそ苦しくなるときもある。そんなふうに、自分以外の人間の心を思いやり、苦しくなりながらも誰かと時間を共に過ごしていく。それが生きるということなのかもしれない。
山本文緒さんの作品は、読む年齢によって色が変わる。抱く感想も変わる。『ばにらさま』が発売されたのは山本文緒さんが58歳のときだ。
58歳になったときに再びこの作品を読み返したらどのような気持ちになるのだろうか。そのときを、自分の心と思考の移り変わりを感じながら待ちたい。
「忙しい人のための3分で読める話題作書評」バックナンバー
・「推しって一体何?」へのアンサー(『推し、燃ゆ』宇佐見りん)
・孤独の中で生きた者たちが見つけた希望の光(『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ)
・お金大好き女性弁護士が、遺言状の謎に挑む爽快ミステリー(『元彼の遺言状』新川帆立)
・2つの選択肢で惑わせる 世にも悪趣味な実験(『スイッチ 悪意の実験』潮谷験)
・「ふつう」も「日常」も尊いのだと叫びたい(『エレジーは流れない』三浦しをん)
・ゴッホはなぜ死んだのか 知識欲くすぐるミステリー(『リボルバー』原田マハ)
・絶望の未来に希望を抱かざるを得ない物語の説得力(『カード師』中村文則)
・黒田官兵衛と信長に叛旗を翻した謀反人の意図とは?(『黒牢城』米澤穂信)
・恋愛が苦手な人こそ読んでほしい。動物から学ぶ痛快ラブコメ!(『パンダより恋が苦手な私たち』瀬那 和章)
・高校の部活を通して報道のあり方を斬る(『ドキュメント』湊かなえ)
・現代社会を映す、一人の少女と小さな島の物語(『彼岸花が咲く島』李 琴峰)
・画鬼・河鍋暁斎を父にもったひとりの女性の生き様(『星落ちて、なお』澤田瞳子)
・ミステリ好きは読むべき? いま最もミステリ愛が詰め込まれた一作(『硝子の塔の殺人』知念実希人)
・人は人を育てられるのか? 子どもと向き合う大人の苦悩(『まだ人を殺していません』小林由香)
・猫はかわいい。それだけでは終われない、猫と人間の人生(『みとりねこ』有川ひろ)
・指1本で人が殺せる。SNSの誹謗中傷に殺されかけた者の復活。(『死にたがりの君に贈る物語』綾崎隼)
・“悪手”は誰もが指す。指したあとにあなたならどうするのか。(『神の悪手』芦沢央)
・何も信用できなくなる。最悪の読後感をどうとらえるか。(『花束は毒』織守きょうや)
・今だからこそ改めて看護師の仕事について知るべきなのではないか。(『ヴァイタル・サイン』南杏子)
・「らしさ」を押し付けられた私たちに選ぶ権利はないのか(『川のほとりで羽化するぼくら』彩瀬まる)
・さまざまな「寂しさ」が詰まった、優しさと希望が感じられる短編集(『かぞえきれない星の、その次の星』重松清)
・ゾッとする、気分が落ち込む――でも読むのを止められない短編集(『カミサマはそういない』深緑野分)