酒の思い出は人生の思い出

文字数 1,027文字

 大学を卒業して就いたのは転勤の多い職場だった。住まいは東京、島根、岡山、長野、高知、鹿児島、福岡と続いた。どの土地にも思い出はあるが、そのほとんどが何らかの形で酒に関わっている。

 竹筒で作ったお猪口に山葵(わさび)の葉を入れて飲む熱々の日本酒。これは中国山地の清流のある町で開かれた山葵祭りの会場だった。
 路地の片隅で、ばあさんが店の前に置いた一斗缶を使って炙る鰹の叩き。鰹の叩きの本場といってもこんな風景はもうないだろう。
 港の近くにあるカウンターだけの居酒屋。店主は元底引き網漁船の漁師で、その日の朝に水揚げされた魚しか出さなかった。安くて旨いのは当たり前だ。
 カウンターに一人に一つずつガスコンロを置いて突っつく湯豆腐。築何十年だろうと思う古い木造の店だったが、カウンターの中で元気に働く女性陣も建物に劣らぬ年季揃いだった。
 鉄板の上で脂まみれのホルモン焼き。口の中の脂を洗い流す生ビールが最高だった。なぜか昼間に行った記憶しかない。仕事はどうしていたのだろう。
 女性バーテンダーが一人でやっている薄暗いバー。さして会話はなかったが雰囲気が好きでよく通った。
 何年ぶり、あるいは何十年ぶりにその街を訪ね、昔の仲間と懐かしい店で酌み交わす酒は、人生の宝物だ。

 思い出の店や料理を並べればきりがないが、忘れてはいけないのが、どの街にもある取り立てて名物料理もない、いわゆる街の居酒屋。一日の疲れを癒すのか、明日への元気をもらうのか。なぜか落ち着く空間。そんな居酒屋を舞台にした小説「よりみち酒場 灯火亭」シリーズが四巻目になりました。
 こんな居酒屋があったら……。誰にでもそう思ってもらえる店がここにあります。
 よろしかったら「灯火亭」の暖簾をくぐってみてください。後悔はさせません。



石川渓月(いしかわ・けいげつ)
1957年東京都出身。 早稲田大学教育学部卒業。2011年に第14回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した 『煙が目にしみる』 でデビュ一。 他の作品に、メタンハイドレートの利権をめぐる陰謀に立ち向かう元高校教師の活躍を描く 『烈風の港』、 高知を舞台にしたハードボイルド作品 『清流の宴』などがある。

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