その女、マトリ

文字数 962文字

 麻薬捜査官は、時に創作のテーマとなる。映画『トラフィック』や『ボーダーライン』は、メキシコの麻薬カルテルと闘うアメリカ麻薬取締局(DEA)の捜査官を描いている。また、ドン・ウィンズロウの小説『犬の力』にはじまる三部作もDEAの活躍が描かれている傑作だ。
 日本でDEAに当たる組織は厚生労働省地方厚生局麻薬取締部だ。犯罪と言えば警察というイメージが強く、厚生労働省の名前が出てくるのを意外に思うかもしれない。しかし麻薬取締官は、刑事訴訟法に基づく特別司法警察職員としての権限を持っている。それが通称マトリである。薬物絡みの芸能人逮捕のニュースやドキュメンタリーなどで、この名前を耳にしたことがある方もいるだろう。
「マトリを舞台に、警察小説とは違う新たなフィクションを描きたい」
 そんな思いがあり、麻薬Gメンを主人公にした作品の構想を以前より温めていた。この構想を世に出すきっかけとなったのは、光文社文芸局の文庫編集長との酒の席だった。
 コロナ禍直前に上梓した二作目となる単行本が振るわず、行き詰まりを感じていた時期。酒を酌み交わしつつ文庫シリーズをやりたいと申し出た。崖っぷちに追い込まれた新人にとって活路になればと、生き残りをかけて原稿と向き合った。
 主人公の名は霧島彩(きりしまあや)。入省五年目である。作中では、組織のひずみや社会の矛盾に悩みながら働く三十代前後の人々を等身大に描いたつもりだ。マトリは社会の不条理ともいえる薬物という闇に立ち向かう。その戦いには様々な葛藤やトラウマが伴う。苦悩を抱えながらも、壁を乗り越えて成長する主人公の姿は、生きづらい現代社会で懸命に働く人たちと重なるはずだ。
 この物語を、生きづらさの中でそれでも前に進もうとする人たちへの応援歌にしたい。そんな思いを込めてシリーズ三作を書き上げた。傷つき苦しみながらも戦う霧島彩の姿、そしてシリーズを通して成長していく彼女の活躍にご注目いただきたい。



辻寛之(つじ・ひろゆき)
1974年富山県生まれ。埼玉県在住。
2018年に『インソムニア』(『エンドレス・スリープ』改題)で第22回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、デビュー。


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