柴田氏の奇妙な伝承
文字数 1,103文字
我が家は謂れの多い家柄である。
古くは仙台藩の柴田郡の四保 城の城主、四万定朝 () に発し、その子、柴田宗義は伊達政宗の家臣として出陣した相馬の役での功績を賞され、後の関白豊臣秀吉より“柴田”の姓を拝領したという記録がある。
二代後の柴田常弘は政宗の側室の子、秀宗が伊予宇和島に入部(1615年)した際に伊達五七騎団の一騎として帯同。以後、柴田家は代々伊達宇和島藩の家臣として伊達家に仕え、この地に定着した。
現柴田氏が本家より独立した初代は柴田金右衛門という人物で、伊達藩では弓組頭を務めたとされている。
その後も柴田氏にまつわる伝承や謂れは後を絶たない。1800年代の幕末に生きた親族の柴田作衛門という武士は同じ四国の土佐藩に仕官し、坂本龍馬の姉の栄と結婚。実はこの作衛門は八代藩主伊達宗城の密偵の一人で、後に龍馬の脱藩を助け、宇和島の柴田氏の一人がこれを手引きしたという話もある。
こうした柴田氏の祖先の中で、最も謎めいた人物が私の高祖父にあたる柴田快太郎 () (1837年~1869年?)である。
快太郎は「宇和海の海賊の娘を娶った男」として我が家に伝わり、坂本龍馬の脱藩を手引きし、児島惟謙 () 、土居通夫 () 、吉田稔麿 () などの幕末の志士と交友。宇和島藩内では銃隊一の射撃の名手として知られ、自らも脱藩の後に諸国を放浪し、時代の多くの場面で目撃者となった。
さらに、この柴田快太郎の最も不思議なことは、その墓が宇和島藩の七代当主、伊達宗紀の墓所の中に祀られていたことだ。
柴田快太郎とは何者だったのか――。
我が家に残る柴田氏の過去帳と膨大な書簡などの資料を読み解き、快太郎の足跡を追うことにより、歴史の真相が見えてきた。
『幕末紀』は、激動の時代に生きた高祖父・柴田快太郎の物語である。
柴田哲孝(しばた・てつたか)
1957年東京生まれ。日本大学芸術学部中退。2006年『下山事件 最後の証言』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)と日本冒険小説協会大賞(実録賞)、’07年『TENGU』で大藪春彦賞を受賞する。著書に『下山事件 暗殺者たちの夏』『GEQ 大地震』『リベンジ』『ミッドナイト』『五十六 ISOROKU 異聞・真珠湾攻撃』『赤猫』『野守虫』『蒼い水の女』『ブレイクスルー』『殺し屋商会』などがある。
古くは仙台藩の柴田郡の
二代後の柴田常弘は政宗の側室の子、秀宗が伊予宇和島に入部(1615年)した際に伊達五七騎団の一騎として帯同。以後、柴田家は代々伊達宇和島藩の家臣として伊達家に仕え、この地に定着した。
現柴田氏が本家より独立した初代は柴田金右衛門という人物で、伊達藩では弓組頭を務めたとされている。
その後も柴田氏にまつわる伝承や謂れは後を絶たない。1800年代の幕末に生きた親族の柴田作衛門という武士は同じ四国の土佐藩に仕官し、坂本龍馬の姉の栄と結婚。実はこの作衛門は八代藩主伊達宗城の密偵の一人で、後に龍馬の脱藩を助け、宇和島の柴田氏の一人がこれを手引きしたという話もある。
こうした柴田氏の祖先の中で、最も謎めいた人物が私の高祖父にあたる柴田
快太郎は「宇和海の海賊の娘を娶った男」として我が家に伝わり、坂本龍馬の脱藩を手引きし、児島
さらに、この柴田快太郎の最も不思議なことは、その墓が宇和島藩の七代当主、伊達宗紀の墓所の中に祀られていたことだ。
柴田快太郎とは何者だったのか――。
我が家に残る柴田氏の過去帳と膨大な書簡などの資料を読み解き、快太郎の足跡を追うことにより、歴史の真相が見えてきた。
『幕末紀』は、激動の時代に生きた高祖父・柴田快太郎の物語である。
柴田哲孝(しばた・てつたか)
1957年東京生まれ。日本大学芸術学部中退。2006年『下山事件 最後の証言』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)と日本冒険小説協会大賞(実録賞)、’07年『TENGU』で大藪春彦賞を受賞する。著書に『下山事件 暗殺者たちの夏』『GEQ 大地震』『リベンジ』『ミッドナイト』『五十六 ISOROKU 異聞・真珠湾攻撃』『赤猫』『野守虫』『蒼い水の女』『ブレイクスルー』『殺し屋商会』などがある。