母のトンデモ理論

文字数 1,347文字

「馬なんかに乗ったら、お嫁に行けなくなるでしょ」と元女優の母が告げる。純潔の証が振動で破れるからという。「ママは心配なんだ。器楽部がいいんじゃないか」と元作曲家の父が語る。ダイニングテーブルの端で、大きく開いた新聞紙に隠れているから、表情はわからない。中1の私は何も返せなかった。

 母はしばしば突拍子もない理論を展開する。ネタの仕入れ先はテレビか美容室の女性週刊誌のはずなのに、それにしては独創的だ。しかも、結婚を機に祖父母に志半ばで止めさせられた女優の演技力をいかんなく発揮し、さも恐ろしそうに伝えるのが得意だ。

 このときも、母は「中学で馬術部に入ったばかりに世界中の男から相手にされなくなり孤独死する哀れな女性の一生」を見事に演じた。私は結局、化学部に入った。

 理科の成績は当時からよかった。グーグルがない時代とはいえ、冷静に考えれば母の言い分がおかしいことは明確だ。けれど優等生の私は、母の決めつけのパワーと勢いに負け続きだった。

「首を鳴らし続けると、プロレスラーのブッチャーくらい太くなる」というのもあった。今思えば「関節を鳴らすと指が太くなる」から思いついたのだろう。愛用のタートルネックのインナーから首が抜けなくって入試に遅れる姿を熱演されて以来、私の首は軋まないくらい凝り固まった。

 状況が変わったのは、大学に合格したときだ。親に初めて反抗し、エスカレーター式で進める大学を蹴った。追い打ちをかけるように、高校時代までは並んでいると母の美を称賛した世の男性たちは、私に声をかけるようになった。母は一気に老けた。トンデモ理論は健在だったが、私はこれまでの鬱憤を晴らすように、いちいち科学的に論破した。大人げなかったと思う。以後十数年間、母は私に宝塚歌劇の話しかしてこなくなった。

 母が息を吹き返したのは、私が三十路に入ってからだ。「今更、某膜の価値もあるまい」と開き直った私は、乗馬を始めていた。「やっぱり、馬なんかに乗ったからお嫁に行けなくなったじゃない」と小鼻を膨らませた母は、意地悪くも美しかった。

 最近、母は「左手でプラグをコンセントに挿すと即死する」と主張する。悶絶の演技はなかなかだったし、漏電に備えて右手で扱う習慣をつけるのも悪くない。私は、害のない思い込みをスルーする程度に成長したが、忖度なしに正したほうがよいかもしれないと悩むこともある。科学リテラシーの取り扱いは難しい。

 馬を繰り、思い切り仕事をし、家族にも権力者にも忖度せずに正論を貫く『馬疫』の主人公・一ノ瀬駿美は、なりたかった自分である。



茜 灯里(あかね・あかり)
作家・科学ジャーナリスト。東京大学理学部地球惑星物理学科、農学部獣医学課程卒。東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。博士(理学)、獣医師。全国紙記者、国際馬術連盟登録獣医師などを経て、現在、大学等で教壇に立つ。『馬疫』が第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、小説家デビュー。

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