タイトルは読者への問いかけです

文字数 1,222文字

 三年前、単行本で『ヘーゼルの密書』を刊行したとき、タイトルの意味を問われたことがあります。《密書》は作中にも登場する小道具ですが、物語の要点は和平工作の過程のほうにあるので、なぜ、わざわざこのタイトルにしたのかと。
 このタイトルは、著者にとっては読者に対する問いかけでした。「現在の――現実のあなたにとって《和解と平和(ヘーゼル)の密書》とは、なんですか。それをいま持っていますか」という問いです。
 本作の主人公たちは、民間人として和平工作を手伝う立場にあります。和平工作自体は軍部が企図したものですが、それを手伝う彼ら彼女らは一般市民の側にいる。国のトップとして停戦を交渉する側にいる者たちの物語ではないのです。和平工作を下層で支え、理不尽な状況と闘い、刻々と変化する複雑な状況を乗り越えつつ、粘り強く前進を続ける勇敢な者たちの物語。皆の隠密行動そのものが、前述の《密書》であるとも言えます。
 文庫化までのあいだに、ロシア・ウクライナ戦争が始まり、イスラエルとパレスチナが、またしても大規模戦闘に突入しました。戦闘が起きていなくても、日本の社会にも既にさまざまな分野で似た状況があります。日常レベルで憎悪が止まらなくなったとき、私たちは何を選べばいいのか。より強く他者を憎むことを積極的に選ぶのか。憎悪の嵐の中で、限定的な範囲であっても、それを拒否する道を選べるのか。
 和平とは、国の上層にいる者たちだけが結ぶものではありません。なにげない日常の積み重ねの中で、ごく自然にそれを支持する市民同士がいて初めて完成します。今回の文庫化で、あらためて、本作がこの問いになれるなら幸いです。現実に生きる私たちにとって、《和解と平和の密書》とはなんなのか。公正さと誇りと深い慈愛をもって、私たちはそれを選択できるのか、と。



上田早夕里(うえだ・さゆり)
兵庫県出身。2003年『火星ダーク・バラード』で第4回小松左京賞を受賞し、デビュー。’10年に発表した『華竜の宮』が、「SFが読みたい! 2011年版」にてベストSF国内篇第1位に輝き、第32回日本SF大賞を受賞した。他のSF作品に『魚舟・獣舟』『リリエンタールの末裔』『深紅の碑文』『獣たちの海』『夢みる葦笛』(「SFが読みたい! 2017年版」ベストSF国内篇1位)などがある。SF以外のジャンルに、歴史小説の戦時上海三部作『破滅の王』(第159回直木賞候補)『ヘーゼルの密書』『上海灯蛾』(第12回日本歴史時代作家協会賞「作品賞」受賞)、室町時代ファンタジー「播磨国妖綺譚」シリーズ、『リラと戦禍の風』などの作品がある。
公式サイト https://www.ueda222.com/

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