向こう側の、ユキコ

文字数 980文字

 社会人二年生の頃だったろうか。当時私は、池袋にある会社に勤めていた。
 あるとき、人事部のAさんに呼びだされた。いつも三つ揃えのスーツでぱりっと決めている部長クラスの雲上人。緊張する私に、Aさんは耳打ちするように言った。
「昨夜のことは……黙っておいてね」
 ……は?
「だから、昨夜のことだよ――」
 Aさんは言い訳するように早口でまくしたてた。その内容を要約すると……ある女性と歩いているところを私に見られたというのだ。場所は、いわゆるホテル街。その女性は私も知っている人で、総務部のB子さん。仕事はできるけどちょっと険のある女性。「オールドミス」と呼ぶ人もいた。
 ……え、つまり、AさんとB子さんが、……不倫? え、でも。
 その時間、私は残業をしていた。そもそも、そんないかがわしい場所に足を踏み入れたこともない。でも、Aさんは、その時間、私に会ったといってきかない。……実は、そういうことはこれが初めてではなかった。それまでにも何度か、そこにいるはずのない私を「目撃した」と言われことがあった。そのたびに、「私に似た人と見間違えたんじゃない?」と笑い飛ばしていたが、さすがに、Aさんの前で笑い飛ばすわけにもいかず。
「分かりました。誰にも言いません」
 そう言ってその場はおさめたが、手のひらは冷や汗でびっしょり。
 世の中には、三人、自分と似た人がいるというけれど。……それは、本当に、ただのそっくりさんなのだろうか? もしかして、もうひとりの私が? もうひとりの、ユキコが? 時空を超えて、向こう側からやってきた? ……それ以来、そんな妄想に取り憑かれている。
 そして生まれたのが、『向こう側の、ヨーコ』だ。もうひとりの〝自分〟を感じながら、読み進めて頂ければ幸いだ。

真梨幸子(まり・ゆきこ)
1964年宮崎県生まれ。1987年、多摩芸術学園映画科卒業。2005年『孤虫症』で第32回メフィスト賞を受賞し、デビュー。2011年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーとなり、一躍、イヤミスの旗手として注目を集める。2015年、『人生相談』が山本周五郎賞候補に。近著に『三匹の子豚』『坂の上の赤い屋根』『縄紋』がある。










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