Kさんを見送った頃

文字数 1,164文字

 2001~2011年の10年間、僕は小説を書いていない。なにを書いていいのか、分からないでいたのだ。その期間、自費出版の会社でアマチュア著者の原稿を添削したりアドバイスしたりする仕事をしていた。自分が書けないのに、担当した著者たちが自費で次々に本を出すことに暗い喜びを感じていたりもした。一方で自身については、いつかまた書くんだろうな、とぼんやり考えていた。
 末期がんのKさんを見舞ったのは、そんな頃だった。前年はフルマラソン大会に出場したというKさんはすっかり痩せさらばえ、かつての面影はなかった。
 Kさんと知り合ったのは、彼の奥さんと僕の妻が大学時代の友人同士だったからである。Kさん夫妻とは一緒に旅行をしたこともあったが、数年前のKさんの転勤で付き合いも途絶えていた。
 妻と僕は言葉もなくKさんが横たわるベッドの傍らに立っていた。彼は意識が混濁しているようで、とても僕らのことなど分からないだろうと思われた。
 ふとKさんが右手を伸ばし、虚空にペンを走らせるような仕草をした。
「そう、そうよ」Kさんの奥さんが必死に呼びかけた。「上野さんよ。そう、書いている人」
 Kさんが、かすかに笑みを浮かべたようだった。
「本なんてめったに読まないんですよ、この人。でも、送っていただいた上野さんのものだけは、必ず読んでいたんです」
 僕には、“書いている人”という言葉が痛かった。
 Kさんが逝って間もなく、SNSに古い読者からメッセージがあった。「新刊が出るんですね!」と。どうやら競合する自費出版会社から、「上野歩」という同一のペンネームで童話が出るらしい。勤め先の法務部に相談したところ、交渉して相手のペンネームを変えてもらうことになった。法務部長に礼を伝えに行ったら、「あなたが書かないから、こうしたことが起るんですよ」と静かに諭されてしまった。この言葉もまた痛かった。
 書かなければと思った。いつかではなく、すぐに。虚空にペンを走らせるKさんの姿が浮かんだ。
 それからも、新しい小説に取りかかるたびにKさんの姿を思い出す。Kさんはこの世を去ったけれど、つながりは今も続いている。人を見送る(葬る)とは、そういうものなのかもしれない。



上野歩(うえの・あゆむ)
1962年、東京生まれ。専修大学文学部卒。'94年、『恋人といっしょになるでしょう』で第7回小説すばる新人賞を受賞。近著に『キリの理容室』『天職にします!』『料理道具屋にようこそ』『あなたの職場に斬り込みます!』『お菓子の船』などがある。

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