冒険ってなんだっけ

文字数 1,196文字

 大学三年生が終わりに近づいたある日、この一年間のあなたのトピックを書きなさい、というレポート課題が出たのを今でも覚えている。何も書くことがなかったのだ。講義にはまじめに出ていたし、体育会に入っていたから大会や合宿もあった。友達とも遊んだ。本も読んだし、映画も観た。でも、トピックとして書くことは思いつかなかった。
 あのときの驚きを忘れない。ちゃんと生きている。楽しいことも、大変なこともあった。喜んだり、悲しんだり、悔しがったりもした。それでも、今年の私の一年はこれでした、といえるものがない。
 さて、このたび『ワンさぶ子の怠惰な冒険』が文庫になる。
 ということは、単行本が出てから三年近くが経ったことになる。
 この三年間何をやっていたんだろうと思った。何もしていない。ほんとうに、何もしていなかった。せめて、何か形に残る仕事を世に出していたなら。新しく始めた何かを習得していたなら。あるいは、長い旅行に出るとか、大きな試合に出るとかでもいい。——そう思ったけれど、たぶん、違う。何をしたとしても、しなかったとしても、良いことも悪いことも含めてそれが日常なのではないだろうか。
『ワンさぶ子の怠惰な冒険』を読み返すと、特には何もしていない日々がひゅるりひゅるりとよみがえってくる。何かをしなくては、という焦りは若者の特権かと思っていたけれど、そんなことはなかった。若者から遠く隔たった今でも、気をゆるすと焦ってしまう。
でも、読み進めるうちに、ゆっくりと心がほどけていった。子どもたちが巣立つ前の最後の三年間、ワンさぶ子との日々、そして肉親との別れがしたためられていて、これでよかったのだ、と思う。日常が、私の冒険だった。ほかにどうしようもない、何者でもない私の人生の一部がここに切り取られていて、これでよかったのだ、と思った。



宮下奈都(みやした・なつ)
1967年、福井県生まれ。上智大学文学部哲学科卒業。2004年、「静かな雨」が「文學会」新人賞佳作となり、デビュー。『スコーレNo.4』は書店員ほかさまざまな読者の支持を得て、ベストセラーとなる。「2016年本屋大賞」を『羊と鋼の森』で受賞。『つぐみ』、『よろこびの歌』、『田舎の紳士服店のモデルの妻』、『遠くの声に耳を澄ませて』、『たった、それだけ』ほか著書多数。また、家族で移住した北海道での毎日を描いた『神さまたちの遊ぶ庭』は好評を博し、「北海道青少年のための200冊」に選ばれた。『ワンさぶ子の怠惰な冒険』は、読書メーターOF THE YEAR 2021(エッセイ・ノンフィクションランキング)で1位に選ばれた。

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