『紅子』×草で遊ぶ犬

文字数 1,010文字

 叶わなかった願いが、誰にでもある。私には、でも、そういうものが多すぎる。看取れずに逝かせてしまった人や、貰う一方で返せなかった愛。過去の後悔や感謝を伝えたいという願いが、紅子になった。
 馬賊が跋扈する満州を舞台にコミックノベルのような小説にしたかったから、随分と戯画化してしまったが、権威も常識も蹴散らし、虐げられた子供達を助けたいとひたすら己の信ずるところを求めて驀進する紅子のような生き方に、私はずっと憧れている。貰うより与える愛を選び、意に添わぬ価値観に決して屈せぬ紅子なら、大切な人を一人で逝かせてしまうこともない。
 けれど馬賊の頭領、尚炎は言う。
「生きている限り、お前の気に喰わないことは次から次へとでてくるぞ。他人を変えることはできない。世界は世界の論理で動いているんだ」「一生かかっても、お前にできるのはわずかなことだ」
 紅子は即答する。
「わずかなことが、大切なのよ」
 青臭い物言いだが、世の不条理を変えるのは、政治や啓蒙運動が大上段に構える正義よりも、今、目の前で泣いている子供を抱き起こし、虐げられている人に寄り添う一人であると思う。己の立ち位置を譲らぬ勇敢なその一人が、新しい世界を創り上げる。紅子は本能でそれを知っている。だから怯まない。馬鹿って言われたっていいじゃない、言ってるのは私じゃないんだから、と笑っている。
 先日、動物愛護センターから犬をいただいた。9年間虐待の憂き目を見てきたその彼は、草が好きだ。閉じ込められた野晒しの檻の隙間から生えた草で遊び、ときに飢餓(うえ)も満たしてきたのだろうと、雑草を()みじゃれる彼を見て職員の方が仰った。紅子が犬ならば、きっと彼のようだろう。不遇に沈まず、己にできる小さなことを積み重ねて世界に抗う。保護犬は萎縮し外界を恐れるという先入観を覆し、彼は好奇心旺盛で散歩が好きだ。初めて知る外の世界を、草で遊びながら、軽やかに渡り始めている。
 彼と暮らせて幸せだ。



北原真理(きたはら・まり)
神奈川県生まれ。『沸点桜 ボイルドフラワー』にて第21回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、デビュー。近著は『リズム・マム・キル』。

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