それは小説の中で

文字数 1,220文字

 何気ない日常のひとコマから入り、その先に意外な展開が待ち受けている読み切り短編が好きです。
 今回、文庫になった『もしかして ひょっとして』も、1話目の導入部は平凡な日常です。赤ちゃんを抱っこした主人公が、電車のボックス席に腰かけて、ようやく眠りについた赤ちゃんにケープを掛けようとするのですが、おもちゃを落としてしまいます。それを拾ってくれたのは向かいに座る老婦人。言葉を交わしているうちに、彼女の語る昔話に引き込まれていきます。
 私自身、電車をよく利用するのでボックス席には馴染みがあります。落とし物を向かいの席の人に拾ってもらったことも、一度や二度はあったかも。けれどそこから何か起きることはまったくありません。
 振り返ってみるに、印象に残っている日常のひとコマならば、最近でもひとつ浮かびます。近所のカフェで、たまたまとなりに座った五十歳前後の女性。彼女は友だちと向かい合わせに座っていて、友だちの悩み事に耳を傾け、配慮の感じられる優しい言葉を控えめにかけていました。いい人だな、もしもこの人と何かしらのきっかけがあって出会っていたら、友だちになっていたかもしれない。そうだったら良かったのにと、ほんのり寂しく思ったものです。
 それなりに長く生きたとしても、ひとりの人間が出会う人の数は、実際のところとても少なくて、ほとんどの人がすれちがうだけ。それすらもないのがもっとたくさん。そういった人生訓は残してくれたのですが、意外な展開は未だまったく起きていません。
 それもまた人生ですか。ですよね、きっと。だからこそ小説があります。あんな人、こんな人が、ひょんなことから遠い過去の思い出話に出会ったり、事件に巻き込まれたり、窮地に陥ったり。読むことで初めて知る世界もありますし、緊張感や刺激を味わうこともできます。何より、意外な展開があれば面白い。楽しい。
 私の短編集もそんな一冊だったらどんなにいいだろうと、どきどきそわそわしながらお届けします。  



大崎 梢(おおさき・こずえ)
東京都生まれ。神奈川県在住。2006年、書店勤務の経験を生かした連作短編集『配達赤ずきん』でデビュー。ジュブナイルから本格ミステリー、家族小説まで、幅広く活躍中。作品に『片耳うさぎ』『ねずみ石』『かがみのもり』『忘れ物が届きます』『だいじな本のみつけ方』『よっつ屋根の下』『さよなら願いごと』『ドアを開けたら』『横濱エトランゼ』『めぐりんと私。』『バスクル新宿』『27000冊ガーデン』など多数。連作に「成風堂書店事件メモ」シリーズ、「出版社営業・井辻智紀の業務日誌」シリーズ、「千石社」シリーズ、「天才探偵Sen」シリーズなどがある。

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