明石ビルという理想郷

文字数 1,199文字

 今だから言うが、この話を書いていたときは苦しかった記憶しかない。とにかく難しい話で、どれだけ書き直しても良くなる気がしなかった。本当に完成させられるのだろうか、と最後まで途方に暮れていた。
 書きたいものはモチーフとしてすべて出した。廃墟ビル、中庭、ミモザの木、ロルカ、カスタネット、白墨(はくぼく)、そして明石だ。それを一本の小説にまとめあげるのは私の技量では非常に困難で、途中で何度も担当編集者に言おうかと思ったほどだ。申し訳ありません、もう書けません、と。
 そんな惨めな記憶しかない本だが、私はこの物語が大好きだ。明石ビルは私にとってある種の理想郷で、実際にあれば住んでみたいと思っているほどだ。
 どうしようもない男たちとどうしようもない明石という女。そして、かわいそうな白墨。この明石ビルの中ではすべてが完結する。他のどこでも生きていけない彼らにとっては完璧な世界だ。明石ビルの住人は家族、共同体であり、もっと言えば個人を喪失した一つの逃れられない運命のようなものだ。
 辛さしかない執筆だったが、明石を書いているときだけは本当に楽しかった。彼女の振る舞いには眉をひそめ、生理的に嫌悪する人も多いだろう。だが、この壊れた運命の女、哀れなファム・ファタルは私にとっては非常に魅力的なキャラクターだった。後藤との絡みに関して言うと、誰にも賛同されないだろうが私の中ではあくまでも純愛という位置づけだ。
 この本を読まれる方に明石ビルを肌で感じてもらえれば、と願う。廃墟ビルの中庭にはミモザが満開で、「酒とバラの日々」が流れ、明石が酒を飲み、白墨が絵を描き、男たちが戯れる。そんな「王国」を眼の前にありありと描いてもらえたら、作者としてこんなに嬉しいことはない。
 たぶん、この物語に結末など必要ないのだろう。今でも明石ビルは存在して、廃墟の中でみな幸せに暮らしている。そう思ってもらえたらいい。『廃墟の白墨』とはそういうお話だ。



遠田潤子(とおだ・じゅんこ)
1966年大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科卒。2009年『月桃夜』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。’16年、『雪の鉄樹』が「本の雑誌が選ぶ2016年度文庫ベストテン」第1位、'17年、『オブリヴィオン』が「本の雑誌が選ぶ2017年度ベスト10」第1位、『冬雷』が第1回未来屋小説大賞に。’20年、『銀花の蔵』が第163回直木三十五賞候補になるなど、注目やまない活躍を続けている。他の著書に『アンチェルの蝶』『雨の中の涙のように』『ドライブインまほろば』『緑陰深きところ』『紅蓮の雪』など。

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